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2017.10.29 [イベントレポート]
「占い師さんに“大”をつけたほうがいいと言われたのです」10/27(金):Q&A『超級大国民[デジタル・リマスター版]』

超級大国民

© 1995 Wan Jen Films Co., Ltd / © 2015 Taiwan Film Institute. All rights reserved.

 
10/27(金)、ワールド・フォーカス ディスカバー亜州電影『超級大国民[デジタル・リマスター版]』の上映後、ワン・レン監督をお迎えし、Q&A が行われました。⇒作品詳細
 
ワン・レン監督:またこちらに来ることが出来て、嬉しく思います。時間が経つのは非常に速いですね。以前 私が参加させていただいた東京国際映画祭は1995年、第8回目の東京国際映画祭でした。当時は渋谷で開催されていたのを憶えています(コンペティション部門で『超級大国民』を上映。ヒストリーページ⇒コチラ)。今回はもう第30回目ということで、時間の経過の速さを感じています。このフィルムはずっと置いたままになっていて、カビも生えてきていました。そこで昨年(2016年)の末、デジタル・リマスター版にして新しく蘇らせました。
この映画は1995年に上映してからVHSもDVDも出していません。もしDVDなどでご覧になった方がいらっしゃいましたら、それは海賊版などの違法のものだったと思います(笑)。今回、新しくデジタル・リマスター化しましたので、台湾や東京でもご覧いただけるようになったことは、非常に意義がある事だと思っています。
 
Q:アメリカからお越しになったということですね。
 
ワン・レン監督:そうですね。台湾に住んでいますが、これは映画の背景に関連してくるので、ご説明させていただきたいと思います。この映画は、台湾で戒厳令が敷かれていた時期を背景にしています。戒厳令は1950年から1987年までの38年間、発令されていました。世界で2番目に長いものです。皆さん、1番長く戒厳令が敷かれていた国はどこかご存知ですか?
シリアです。台湾より更に10年長いものでした。
戒厳令が解かれてから、台湾は少しずつ民主的な時代に入り、その後2大政党が政党間で闘争を繰り広げるという時代に入りました。
台湾で戒厳令が1987年に解かれてから、今年2017年は30年目になります。私の当時の映画がアメリカのコロンビア大学やUCLA、NYUで上映されたため、意見交換会やQ&Aが行われていて、今回の来日前はアメリカで忙しくしていた、というわけです。
 
Q:主人公、個人の贖罪に焦点を当てて描かれていますがもっと国や政治の問題を入れることは考えなかったでしょうか?
 
ワン・レン監督:とてもいい質問をありがとうございます。実は、この作品は最初3つのバージョンがありました。1つ目のバージョンでは、今、ご覧いただいた中にでてきた主人公の老人は脇役でした。90年代の台湾では、非常に大きな社会の変化がありましたので、私はそこを切り口にして、娘婿を主人公に、例えば国会議員や黒社会、ブラックマネーなどをテーマにしようと考えていました。そのバージョンでは、今ご覧いただいた映画の中での主人公は、ほんの少ししか出てこない端役だったんです。
彼は、政治に関することは聞くだけで自分の意見は言わない、自分の考えた事がセンサーを通して政府に伝わってしまうんじゃないかと考える、などです。当初はそのような風刺的なやり方でこの老人を描いていたんです。結果としては、別な人物で描きましたが。
孫に台湾の歴史を教えてと言われたら、高圧線の下に連れて行ってそこで教えます。高圧線の下はノイズが発生していて、センサーを邪魔するので、国民党に考えていることや話していることは聞かれないと考えていて、そこで話すのです。これが第1バージョンで使った風刺のやり方です。
その後、また考え直した結果、その当時の台湾の白色テロや家族の問題をこの老人に表現してもらおうと考えました。いろんな人が貶められ、通報され、被害者になって亡くなられた時代。当時は通報されて捕まった人は財産を没収され、通報した人がその没収した財産の相当部分をもらうことができたんです。そのことから、多くの冤罪がおき、多くの人が逮捕されて亡くなってしまいました。第2バージョンでは実際に自分が貶められて投獄され、労役所から出た後、自分を貶めた人を探し出して見つけ、その人を許すというバージョンにしました。第2バージョンですと、展開がドラマチックなんですよね。酷い目にあって、心の葛藤があり、貶めた人を見つけて許す、という偉大な人の話だったんです。
でも、これは自分の撮りたいものではないなと思い、次に第3バージョンを考え始めました。いろいろ調査した結果、その頃、投獄された若い人達は、自分が社会に対して持っている理想と現実の間でいろいろ揺れ動いているということが分かりました。彼らには家族があって、妻や子供がいるわけです。これが一番真実に近く、ここを中心に描こうと考えました。今回この映画の中で、主人公による密告という形で名前を出されてしまう陳さんは逃げました。本当は首謀者ではなかったのですが、結局は捕まって処刑されてしまい、主人公はそのことでずっと自分を咎めていたんです。
死刑になった人は、その家族が給料の3か月分のお金を支払わないと遺体を引き取ることができませんでした。引き取り手のない遺体は、病院の解剖用に提供されたり、名もないまま雑多に埋葬されていました。この映画にもぐちゃぐちゃになった墓標が出てきますが、そういう所に埋葬されたんです。
私はこの映画を撮影する一年前に、台北の近くでそれらのお墓を見つけました。そこでアイデアが浮かび、陳さんが処刑されて、こういったお墓に埋葬される、主人公が良心の呵責を背負ってそのお墓を探して謝罪する、というふうに作ったわけなんです。もちろん撮影に使用した場所は本物のお墓ではなく、セットとして作ったものです。
 
Q:「すみません」という日本語のセリフに深く心を打たれました。
 
ワン・レン監督:日本語で「すみません」と言うところですよね。彼らは日本の教育を受けて、自分は日本人だと言われ、自分も日本人だと思って育って生活をしてきた人達です。一時期、国民党はそれを認めなかったんですが、今は少しずつ変わってきています。その当時の人達にとって、本当に謝りたい時、本心で謝りたい時に出てくる言葉は「すみません」なんです。「I’m sorry」とか中国語での「すみません」はそれほど気持ちが込められない、という教育を受けた人達なんですね。だから彼らは、被害者であり加害者であるという点と、彼らが日本統治時代の教育を受けた人だ、という点をそこで表現したかったということがひとつと、加害者であり被害者であるということで、やっとそのお墓をみつけて謝る、というところを、私は一番撮りたいと考えました。
 
Q:タイトルに込めた意味を教えていただきたいと思います。
 
ワン・レン監督:まず初めに台湾の歴史をお話しします。台湾は韓国と同様に、50年間、日本の植民地でした。そのため、私が子供の頃は、私の両親や学校の先生達は誰も見ていないところで話をするときは、日本語で話していました。私は今年で67歳です。ずっと昔の話ですが、私が子供の頃には、両親は誰も見ていない時には日本語で話すというというような状況があって、日本には非常に大きな影響を受けていました。
ここに出てくる主人公も、自分は日本人だと思っていました。実際は台湾人なのですが、日本の植民地時代に生活をしていて、自分は日本人だと考えていました。韓国と違うところは、韓国は日本の植民地時代に対して非常に反発というか、それを認めないという国民感情が強いのですが、台湾の場合はそれが半々で拮抗しています。植民地にされたという嫌な思いがある反面、日本統治によって、いろいろなインフラが整ったりして生活レベルが上がった、文化の影響を受けたということで、それを良いように思っている面も半分あります。そこが韓国との違いです。
ただ、日本が植民地にしたことが良かった、というわけではないので、映画の中にも反植民地や反戦争というシーンはたくさん取り込んでおります。
日本人の方は、亡くなると遺骨を骨壺に収めて、風呂敷で包んで四角い箱に入れて持ちますよね。台湾の場合は、文化的に、遺体を第一に考えます。遺体を第一に考えるといっても頭を切り落としたりはできませんので、腕を切り落として骨を持ち帰るという風習がありました。映画の中に大きな手や足の骨が何本かありましたよね。遺体を持ち帰れないので、その骨の一部を持ち帰ってきたという写実がありました。あそこではっきりとは言っていませんが、戦争には反対だ、ということを訴えています。
ご質問にやっとお答えします。私は3本作品を作っていて、超級三部作と呼ばれています。最初に作ったのが『超級市民』です。これは、台北の1人の市民をテーマに描いたものです。その人は全く超級(スーパー)でも何でもないのですが、ブラックユーモアといいますか、皮肉で超級(スーパー)と付けています。そして2本目がこの『超級大国民』で、全くスーパーでも偉大でもない人をやはり描いています。もう一つが『超級公民』で、タクシーの運転手が主人公の、やはり同じようなブラックユーモアの映画です。
ただ、その三部作のうち今回、観ていただいた『超級大国民』だけに“大”が付くのには理由があります。占い師さんに“大”をつけたほうがいいと言われたからです。というのも、このような政治的な映画には誰も投資してくれません。
奥さんと相談をして、自分の家を抵当に入れてお金を借りて、これを撮りました。下手したら財産が丸々なくなってしまうわけですので、占い師さんに聞いたら、“大”を付けたらいいよと言われたので付けたのです。
その後、この映画がいろいろな国の映画祭に出展されたので、台湾政府が支援、補助してくれました。それもありまして、少しずつお金を返して、家を取り戻すことが出来ました。22年後にこの映画を見た人が、当時の論点というのは、今も話すに値する内容だよね、と言ってくださるので、自分もそれを聞いて嬉しく思っております。
ただ、この映画については、アメリカの大学や台湾の大学において、白色テロに関してすでにいろいろなQ&Aをおこないましたので、もうこのくらいにしておいきたいと思います。次は1947年に起きた二・二八事件をテーマにした作品を撮って、また皆さんにご覧いただければと考えております。

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